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高市早苗の若い頃の画像&エピまとめ|幼少期から初当選まで時系列で

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高市早苗さんですが、若い頃から非常に綺麗な方でした。

高市早苗さんは10代の頃はヤンチャだった時期があり、高校生でディスコに行ったり、バイクで通学したりもしていました。

大学時代はドラマーを務めてて、4つバンドを掛け持ちしていました。

その中にはプロで大学の先輩の小林万里子さんのバックバンドも務めていました。

松下政経塾5期生で、そこで松下幸之助さんの話を聞き、政治家を志す事を決めます。

20代の時に貯めた2000万程を全部使った初選挙では落ちてしまいますが、その1年後の選挙で見事当選を果たしました。

当記事では、そんな高市早苗さんの若い頃の画像やエピソードなどについて書きました。

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目次

高市早苗の若い頃の画像まとめ

では、高市早苗さんの若い頃の画像を見て行きましょう。

幼少期

1歳に父親と

3歳

大学時代

大学時代にバイクに乗ってる高市早苗さん

ドラマー時代

空手部時代

松下政経塾時代

松下幸之助さんと高市早苗さん

米国留学時

一緒に映ってる女性は、パトリシア・シュローダーさんで、この方の個人事務所に勤務していました。

1991年

1993年頃

スキューバダイビングを行う高市早苗さん

愛車Z400GPと高市早苗さん

30代

1992年の初出馬の参議院選挙

1993年の衆議院選挙 演説時

1993年の衆議院選挙 当選時

初登庁時

ちなみに、こちらは1995年7月に34歳の高市早苗さんが安倍晋三さんと議論をしてる動画です。

高市早苗の若い頃のエピソードまとめ

高市早苗さんの学歴は

橿原市立畝傍南小学校→橿原市立畝傍中学校→奈良県立畝傍高校→神戸大学 経営学部経営学科(経営数学専攻)

となります。

そんな高市早苗さんの若い頃のエピソードを時系列で見て行きましょう。

反抗期

2007年に「突撃永田町!みわちゃんねる」にて、高市早苗さんが書かれた幸せグラフにて、10代から高校2年ぐらいにかけて急下降していました。

この頃は反抗期で親との関係が最悪の時期で、「親に必要とされていない人間」と思ってて、少しグレてて、ガタガタだったそうです。

なので、高校時代には親の目を盗み、ディスコに行っていました。

奈良県から電車で難波まで行き、歩いてると心斎橋などのディスコの割引券を割引券をくれるので行ってたそうです。

ディスコに行く時には、高市早苗さんはかなり緊張してたみたいですね。

ただ、高校2年ぐらいの時に母親の育児日記を読んで、「どんなに私が生まれた時に嬉しかったか、どんなに父の給料が安いのに私が病弱で病気ばかりして病院代でほとんどお金がなくなっちゃってた」と言う事が書いてあり、「私愛されたんだぁ」と実感し、心を入れ替えて人生が幸せになって来たそうです。

ちなみに、高市早苗さんは小学校の頃から阪神タイガースのファンでした。

高校時代はバイク通学

高市早苗さんは高校時代は遅刻しがちだったので、バイクでの通学をしていました。

スカートの下にジャージをはき、学校の裏にバイクを停め、金網をよじ登り登校をしていました。

この行為は校則違反で、高市早苗さんもその事は分かっていました。

バイクは16歳から乗り始めています。

バイクに乗ったきっかけについては

特にきっかけはなく、通学やバイト先への移動などに必要だったからです

引用:フラッシュ

2021年4月11日のフラッシュにて、バイクエピソードを離されています。

  • 学生時代は裏六甲や阪奈道路の大阪側などのカーブが多い道を走るのが好きだった
  • バイト代が貯めればツーリングに行き、全国の海岸線の道はほぼ走ってた
  • 20代前半はしげの秀一さんの漫画「バリバリ伝説」にハマってた
  • 37歳頃に「万が一怪我で国会を休んだら、有権者の人達に申し訳ない」と思うようになり、公道でバイクは乗らなくなった

不良ではなかった?

2023年3月13日のフラッシュの記事にて、高校時代の同級生が

早苗が高校時代からバイクに乗っていたとかは、聞いたことがないですね。おそらく、神戸大学に入ってからの話では……

さらに、他の同級生も

(バイク乗り・ロックバンドについて)聞いたこともないし、むしろ真面目な印象だった

とのコメントが紹介されていますが

高市早苗さんが小学校の途中から大学入学後まで住んでた奈良県橿原市の近所の人は、いつ乗り始めたのかは覚えてないそうですが、バイクに乗ってた事を覚えていました。

ああ、覚えてますよ。夕飯の支度をしていたら『ドドドッ』と、バイクの低いエンジン音が遠くから聞こえてきて。『あ、早苗ちゃんだ』とすぐわかりました。夜中遅くにバイクで帰ってきたこともありました

さらに、近所の人曰く、高市早苗さんは母親から大事に育てられていました。

なので、母親はほとんど高市早苗さんの自慢話を近所にしてたそうです。

(高市氏の)お母様は、口を開けば娘の自慢でした。『うちの早苗が……』って。勉強だけでなく、ロックバンドのことも『ドラムも叩くんや』と言うし、バイクに乗ってることも自慢してはりましたよ

ドラマー時代

高市早苗さんはバンドでドラマーをしてて、ディープパープル・ジューダスプリースト・ブラックサバスと言ったノリのバンドで、そして自分のドラムの練習にはコージーパウエルの「Over The Top」でしていました。

こちらが、コージーパウエルの「Over The Top」です。

そして、大学時代には4つのバンドを掛け持ちなど音楽漬けの生活を送ります。

大学2・3年頃には関西で有名な歌手の小林万里子さんのバッグでドラムを叩かれてもいました。

小林さんは神戸大学の先輩だったので、「一緒に入れへんか?」と誘われた事により、バックでドラムをされていました。

こちらが小林万里子さんの代表曲の「朝起きたら…」です。

ちなみに、高市早苗さんがドラムを選んだのは、「いきがかりで、当時ほんま体力だけはあったので、かなり重たいドラムを叩かせて頂いていました。」だそうです。

高市早苗さんは大学時代はロックバンドデビューを目指していましたが、その夢をあきらめています。

その理由については、雑誌のインタビューで

1等賞になれないのがわかってることに一生かけるのはバカバカしい

引用:ニュースポストセブン

とコメントされていました。

ホステスのバイトをしてた?

2021年9月23日の韓国のYoutubeチャンネルにて、高市早苗さんについて話されています。

大学受験では早稲田・慶応を合格するも、男兄弟がいたので、両親に「女にはお金を使う事ができない」と言われ、神戸大学に進学します。

ただ、大学の通学には往復6時間かかりました。

大学時代はホステスをして学費を稼いでた事も話されています。

さらに、大学の頃には空手を習ってたそうです。

松下政経塾時代

高市早苗さんは松下政経塾の5期生です。

当時の松下政経塾は5年通わないといけなくて、最初の2年間は全寮制になり、勉強・体力作り・座禅・剣道などかなりしんどかったみたいですね。

毎朝5時半頃に起床し、6時頃に3キロ走っていました。

さらに、冬の剣道の寒稽古では4時半頃に起床してたそうです。

そして、残りの3年間は研究費も支給され、自分の志に必要な準備を行っていく期間となります。

ただ、当時は理事などが厳しく、ダメと判断されると毎年クビになってて、14人入り卒業時には6人程まで減っていました。

卒業生として

在塾中に得たものは、今も日々の政策判断や行動に際して「物差し」としている確固たる価値観です。入塾される皆様、松下幸之助研究を極めてください。自らの使命への力強い信念が生まれ、行動規範が定まります。

と言うコメント在校生に向けてコメントを出されています。

パトリシア・シュローダー事務所時代

高市早苗さんは、1987年12月~1989年3月にパトリシア・シュローダーさんの個人事務所に勤務されています。

高市早苗さんがテレビで大統領選に向けた候補者の選定を行ってる所でパトリシア・シュローダーさんを見て、「頑張れ」と思いみてると、パトリシア・シュローダーさんがある時に候補者の断念の記者会見を行っててその時に泣き崩れてる姿を見て、「この人のそばで勉強したいな」と凄く思いました。

元々、高市早苗さんは共和党に近くパトリシア・シュローダーさんとは思想が違いましたが、「全然自分と違う思想・政策を持った政治家の元で色々勉強するのはメリットがある」と思った事と当時は日米貿易摩擦が凄くて、パトリシア・シュローダーさんは安全保障委員会の重鎮で「日本ももっと負担しろ」という主張をしてたので、「ちょっとこういう人の下に飛び込みたい」と思い手紙を書くも反応がなかったので、大統領選を断念した事に関する励ましと「これから応援しつづけます。何かあたなのお役に立ちたい。」と電報で送ると、すぐに返事が返ってきました。

そこには「とりあえずいらっしゃい」と書いててあり、最初の3か月弱はインターンで手紙の仕分けや電話番などをしていましたが、Congressional Fellowのポストが空いた事により、そこから議員立法のアイディアを作ったり、議員のコメントの資料や原稿などを用意したりしていました。

20代の頃はモテまくってた

そんな高市早苗さんですが、20代の頃は今よりウエストが15㎝以上も細かった事を2021年9月26日のフライデーで話されています。

さらに、20代の頃は恋愛を謳歌していました。

その事については、著書の「30歳のバースディ その朝、おんなの何かが変わる」にて

地中海で、海の見えるホテルの部屋で、飲みィの…

快楽の境地におぼれられる相手じゃないと、話にならない

とかなりのモテエピソードを披露されています。

ただ、31歳で政治活動を始めてからは忙しすぎて、男性への興味を失って行きました。

政治家を目指したきっかけ

政治家を目指したきっかけについては、2018年5月23日のYoutube「CafeSta 関西人!俺にも言わせろ!」にて

1985年の24歳の春の時に、30代になったら国会議員になる事を決めました。

松下政経塾に入って1年程経った際に、松下幸之助さんと話す機会があり

  • 国際社会の枠組みが90年代に入ると凄く変わるから、「国際政治から目を離さずに大きな枠組みを良く見とけ」と言われました。
  • アメリカやヨーロッパなど先進国ばかり見てたらダメで、もう少しすると繁栄がアジアに移って来るので、「アジアの国をしっかり見て、何ができるか何が一緒にやれるか勉強しとけ」と言われました。
  • 当時の日本はバブルで景気が好調でしたが、「90年代に入ると日本は長期の不況に入る」と言われました。

当時は想像ができない事でしたが、「これ程長く生きてて、経営のトップとして長く経済を見て来た人なので、案外当たるかも」と思い、それだけ大きな外交や経済の変化が起こるなら、金融政策や税制や法律など国の基本の作り直しが必要と思い、「よっしゃ!」と政治家になる事を決めました。

そして、当時自民党の候補者がいなかったので、選対長の野中広務さんに「出ないか?」と誘われ、仕事を全部やめて出る事を決めました。

しかし、1992年6月9日の自由民主党県連は奈良県選挙区の公認候補を決める為に拡大役員総会で服部三男雄に敗れ、服部さんが候補者に決まりした。

ただ、1992年6月29日に高市早苗さんは無所属での立候補を表明し、1992年7月26日に参院選投開票。無所属で立候補したが、服部に大差で敗れ落選しました。

選挙の為に、必死で働いて2000万程貯めていました。

初当選まで

20代の時に貯めてたお金を全部つぎ込んで選挙に挑んだので、落選した時は大変でした。

さらに、当時は無職にもなってたので、「明日からどうしよう」と思うも、朝に駅での演説や一軒ずつ個別訪問をして後援会に入って貰ったりするなどお金が掛からない政治活動を行ってると、翌年に衆議院が解散になり、当時は日本新党ブームで高市早苗さんと同世代ぐらいの若い人も立候補し、「きついかも?」と思いました

1993年の第40回衆議院議員総選挙に奈良県全県区から無所属で出馬して、得票数トップで初当選をしました。

当時について

落選してから初当選までの期間、たくさんたくさん歩いて、たくさんの人に会えたから、結果的に「良かったかな」と思って

とコメントされています。

以上が、高市早苗さんの若い頃に関する記事ですね。

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