増山江威子さんの若い頃から非常に綺麗な方でした。
さらに、綺麗な人なので、若い頃はモテモテだったそうです。
増山江威子さんは4人姉妹の末っ子として生まれ、かなり可愛がられて育ちました。
実家は、木造で歴史があるお屋敷で、近くには毒蝮三太夫さんや十朱幸代さんの実家があります。
幼少期からバレエをされていましたが、肺病になった事でバレエの夢を諦めました。
そして、新児童劇団に所属し、その後、毒蝮さんなどと劇団山王を作ります。
さらに、劇団四季にスカウトされ所属されてた時期がありました。
当記事では、増山江威子さんの若い頃について書きました。
増山江威子さんの夫や娘に関する記事はこちらです。
増山江威子の若い頃(昔)の画像が可愛すぎ!
こちらが、増山江威子さんの若い頃の画像です。
そして、こちらが、1980年「ジ・アニメ 」時の増山江威子さんです。
増山江威子の若い頃の経歴は?
続いて、増山江威子さんの若い頃の経歴を見て行きましょう。
4人姉妹の末っ子
増山江威子さんは、4人姉妹の末っ子で、すぐ上の姉が6歳年上でした。
なので、お姉さん3人も母親の様な感じで、大事に育てられました。
お姉さん達は舞台などには興味がない普通の人です。
ただ、父親は観世流でうたいをやってて、趣味ながら本格的で木曜日ごとに弟子をとっていました。
さらに、水道橋の能楽堂に父親が出演してる姿を見てて、幼少期から「舞台はこういうものだ」と刺激を受けていました。
ちなみに、お姉さんは上から
- 千代子(ちよこ)
- 幸子(ゆきこ)
- 京子(きょうこ)
- 知子(ともこ)
となります。
一番上は千代子姉さんと呼んでいましたが、2人目から「いっちー、きょうちー」と呼んでて、増山江威子さんは「とんち」と呼ばれていました。
実家はお屋敷
増山江威子さんは、東京府(現、東京都)品川区荏原で生まれ育ちました。
毒蝮三太夫さんとは実家が近く、毒蝮さん曰く、増山江威子さんの実家は
だそうです。
さらに、十朱幸代さんの実家とも近いので、十朱さんの父親と電車がよく同じだったそうです。
増山江威子さんの家では、「宝塚はいいけど、浅草を行ったらいけない」と言われていました。
ただ、SKD(松竹歌劇団)が好きなので、親の目を盗んで、浅草に観に行っていました。
宝塚歌劇団も大好きで3歳から観に行っていました。
ちなみに、SKDは草笛光子さんや倍賞千恵子さんが出身です。
このエピソードから増山江威子さんはかなり育ちがいい方である事が分かりますよね。
幼少期の頃は?
幼少期の頃はゆっくりとした話し方がコンプレックスで、学校の職員室で先生に「あなた、ちゃんとお話しできないの?」と言われたりしていました。
先生に言われた事はショックで、「人並みに話せる様になりたい」と思ったそうです。
さらに、幼少期の頃からバレエをずっと習ってて、バレリーナを目指していました。
ただ、肺病になってしまい、バレエが出来なくなり、時間が出来てたそうです。
そして、12歳の時に自分の話し方が恥ずかしいと思い、話し方の勉強する為に、増山江威子さんの義理の兄が自動新聞をやってて、劇団をしてる人と新聞を作ってたので、紹介をして貰い、試験を受けて合格し、「新児童劇団(現、劇団新児童)」に所属されました。
この劇団には、女優の麻生美代子さんがいて、児童部の先生として色々と教えて貰いました。
さらに、当時NHKは生放送で「ラジオドラマ」をやってたので、子供役で出演されてて、度胸もつきました。
さらに、ここで話し方へのコンプレックスも克服し、演技に興味を持ち始めました。
唐十郎とも共演してた
新児童劇団を辞めて、宙ぶらりんだった時に、「次郎物語」の舞台で姉役がいないので、手伝って欲しいと頼まれ、一緒に旅に行きました。
この時に、まだ子供だった唐十郎さんがいて、唐さんがぼーっとしてたので、増山江威子さんは唐さんの頭を軽くぶったりしていました。
劇団山王
15歳の時に児童劇団に所属する年齢でなくなり、「ラジオドラマ」で一緒にやってた人達の毒蝮三太夫さん・稲吉靖司さん・影万里江さん・北浜晴子さん・豊原ミツ子さんなどと話し合い、劇団を作る話になり、劇団山王を作りました。
劇団山王は10代の集団だったので、男女の交際は禁止だったそうで、毒蝮さんが風紀委員を務めていました。
学校のクラブ活動の様な感じで、貧乏劇団でしたが、楽しかったそうです。
当時の劇団は、野村道子さん・塩谷晴子さん・菅谷政子さん・豊原ミツ子さん・山本嘉子さんなどがいました。
こちらが、劇団山王時代の画像です。
引用:Youtube
出身高校は立正学園
増山江威子さんは、1968年の日本放送名鑑にて、立正大学付属高校出身である事が書かれています。
この学校は
東京都大田区にあり、偏差値は2024年時点で普通科特進コース 58、普通科進学コース 52となります。
車だん吉さんやYoutuberのシバターさんの出身校です。
劇団四季
その後、女優が少ないので、増山江威子さんと影万里江さんが劇団四季にスカウトをされました。
浅利慶太さんが舞台を観に来た事で、スカウトされました。
この時は劇団四季ができて1年目ぐらいだそうなので、1953年頃の出来事だと思われます。
ただ、当時の劇団四季の芝居は早口だったので、ついていけなかったそうです。
当時は、影山さんと四畳半の部屋を借りて2人で暮らしていました。
劇団四季の稽古は夜中まであり、実家から「朝帰りする子はうちは困ります。」って言われたので、横浜に住んでた影山さんと暮らしていました。
当時、影山さんは色々な男性を部屋に呼んでて、その度に増山江威子さんは実家に帰らされていました。
ただ、当時の増山江威子さんは純粋で奥手だったので、なぜ帰らせられてるのか?理解は出来ていませんでした。
当時の増山江威子さんは美人で、バレエをしてたので、スタイルも抜群だったので、かなり男性からモテていました。
声優
増山江威子さんは、1960年代から青二プロダクションに所属し、声優として活動されています。
当時は、声優と言うカテゴリーはありませんでした。
なので、「ルパン三世」の声優も芝居上がりの人達がされていました。
ちなみに、1980年の「ジ・アニメ」のインタビューにて
時間を見つけて旅行をしたり、文楽鑑賞と食べ歩きが趣味である事を話しています。
文楽については
文楽はアニメーションとどこか通じる所があるんです。
もちろん、文楽は人形ですし、表現も違いますけど、「心」を吹き込んで命を与えるのは同じですものね。
ですから、文楽はなるべく欠かさず見てる様にしてるんですよ。
とコメントされています。
さらに、増山江威子さんは声優の仕事は経験と勉強が大切と話してて
自分は声優を目指して来た訳ではなく、舞台・テレビドラマをやってと言う段階を経てなりました。
声優になりたい人は、まずは劇団などで基礎から勉強した方がいいと思います。
とこれから声優を目指す人達へのアドバイスをされていました。
以上が、増山江威子さんの若い頃に関する記事ですね。
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