石丸伸二さんは、安芸高田市の吉田町商店街で生まれ育ちました。
当時の吉田商店街はにぎわってたそうです。
石丸伸二さんは、大学卒業後に三菱東京UFJ銀行に就職し、最初は法人営業を2年程されていました。
その後、3年目でエコノミストになり、その後は債券アナリスト・為替アナリストを務めました。
為替アナリストとしては、初代ニューヨーク駐在勤務となり、4年半程勤務されました。
この時代はかなり激務だったそうですよ。
その後、銀行員を辞め、政治家の道を進みますが、当時の仕事を天職だと思ってたので、辞める事はかなり苦渋の決断となりました。
当記事では、そんな石丸伸二さんの経歴について書きました。
石丸伸二さんの学歴や学生時代についてはこちらでまとめました。
石丸伸二の幼少期の経歴は?
引用:Youtube
まずは、石丸伸二さんの幼少期の頃の経歴を見て行きましょう。
吉田町商店街で生まれ育つ
石丸伸二さんは安芸高田市の吉田町商店街で生まれ育ちます。
こちらが、現在の吉田町商店街となります。
ただ、現在は石丸伸二さんが生まれ育った家はなくなってて、今は2階建ての建物に建て替わっています。
安芸高田市の広報誌にて、吉田町商店街について
18年ぶりに住む地元は、ずいぶん変わったな。と言う印象です。私が生まれ育った吉田町商店街も、今では“少”店街と呼べてしまうほど(某店主談)静かになっています。
小さい頃の思い出は、この商店街が中心です。
朝早くに響くシャッターの音。夕方の忙しそうな買い物客。市入祭でずらっと並ぶ出店。隣の家のおとうさんがおかあさんに叱られる声(笑)。
その全てが私の幸せの時間だった。と自信を持って言えます。だから、このまちに帰って来ようと思えました。
まちの景色が変わっても、いえ、変わるからこそ、思い出は大切なんだと感じます。
と書かれています。
当時は吉田町商店街は賑わっていましたが、現在ではお店は2割程しか残っていないそうです。
中学卒業時に決心がつく
石丸伸二さんは元々勉強が得意な子供でしたが、中学から高校に上がるタイミングで父親に「中学卒業後にどうするんだ?」と高校に行くのか行かないのか?を問われ、その時に「高校に進学しないと困るかな?」と思い、両親に
とお願いをされました。
そんな感じで、お願いをした以上は勉強をしないとカッコがつかないと思って、「頑張ろう」と思えたので、その時に決心がつき、その先に繋がってるそうです。
石丸伸二の三菱東京UFJ銀行員時代の経歴は?役職・年収まとめ
引用:Youtube
では、続いて、石丸伸二さんの三菱東京UFJ銀行員時代の経歴を見て行きましょう。
三菱東京UFJ銀行に入社後
2006年、大学卒業後に三菱東京UFJ銀行に入行し、姫路支店に配属されます。
最初は法人営業を2年程され、入社して3年目でマクロ経済を分析するエコノミストになり、その後は債券アナリストを務めました。
まずは銀行の本部の中枢の企画部の経営調査室で銀行経営に必要な世界経営全体を見通しを立てる事を2年程行いました。
その後、上司に連れられて金融市場に携わる部署に行き、3・4年程仕事をしました。
この部署は株や債券など金融商品を扱い激しくお金が飛び交う部署で、当時の銀行の総資産の120兆円の内の40兆程を運営し、そこで自分の予測を出してたそうです。
石丸伸二さんがエコノミストからは本部のリサーチ部門に入る事が出来たそうで、このポジションは、自身が専攻してた統計を使った仕事の為、入りたくて仕方がなかった役職となります。
三菱東京UFJ銀行時代の仕事内容は、「一から十まで行って貰える仕事ではなく、一は先輩や上司が教えるけど、後は自分で考えろよ」と言う感じだったそうです。
為替アナリスト
2014年、為替アナリストとして三菱東京UFJ銀行子会社MUFGユニオンバンク初代ニューヨーク駐在として赴任し、以後は4年半にわたってアメリカ大陸の主要9か国25都市で転々と出張し、年間100日ぐらい回る生活をされています。
上司が送り出してくれたおかげで担当する事ができ、ここではカナダから南米のチリまでを一人で担当してたので、かなりの激務でした。
ちなみに、南米のブラジルやアルゼンチン担当時には
ずいぶん遠くまで来たな。もう、これより遠い場所はないんだな
引用:週プレNEWS
としみじみ思うと同時に、地元に何か恩返しをしたい気持ちが強くなりました。
為替アナリスト時代は、為替が次にどうなるかを分析し、予測してその事をレポートに書き、その事について講演会で話をされていました。
講演会では為替や経済の話をするので、難しくてつまらないので聴いてる人は寝る人も多いそうですが、石丸伸二さんはプレゼンの練習を重ね、緩急をつけ、興味関心を惹かせる様に話して、絶対寝させないように努力をされていました。
石丸伸二さんはニューヨーク駐在の前後の頃には、自身の仕事を転職だと思ってたので、「絶対、ここで生涯一流を目指す」と言う意気込みで仕事をされていました。
そして、アメリカから帰宅後は東京に住んでいます。
ちなみに、石丸伸二さんは東京に10年程住んでいました。
ちなみに、ニューヨーク駐在時代はキックボードで通勤をされてて、安芸高田市長時代には市長室にそのキックボードが置いてありました。
さらに、市長時代のネームプレートも銀行員時代のものを使っていました。
ニューヨーク駐在時代は、かなりのハードワークだったので、「そろそろしぬかな?」と思った程だそうで、このネームプレートを見るとその頃を思い出し、「まだまだ行けるな」と思うそうです。
三菱東京UFJ銀行でのキャリアについては、石丸伸二さんは曰く
かなり幸運で上司に恵まれてたそうで、もう一度人生をやり直したとしても、他の事はなんとかできそうだけど、ニューヨーク駐在などに行ける自信はないそうです。
ニューヨーク駐在時代につらかった事について、Meet-upオンラインで話さてて
日本が通じず、全ての文化が違ってたので、全部しんどくて、疲れたそうです。
向こうではスーパーで会計前に商品を食べるやレストランのコースでいくつかの決まり事があるだけでメニューをアレンジをする交渉を行ったりするなど日本の中で自己主張が強めな石丸伸二さんでも「日本人なんだな」と感じたそうです。
さらに、白人の男女がヒエラルキーのトップで、アジア人は下に扱われやすいそうです。
石丸伸二さんもファーストフード店で並んでると白人の人が割り込んで来て、かなり舐めた態度をとられました。
それに対し、石丸伸二さんが「並んでたよね」と反抗すると、後ろに並びに行ったそうです。
2024年7月14日の「そこまで言って委員会」にて、大野裕之さんが出演し、石丸伸二さんの三菱東京UFJ銀行の上司だった人などにインタビューした事を話されていました。
それによると、銀行員時代の石丸伸二さんは
優秀なアナリストで、外国為替のエキスパート講師をしてて、物凄く丁寧に教えてくれた話や同僚の人達は石丸伸二さんの人柄について「いい人」と言った事を話されています。
退職
2020年7月に三菱東京UFJ銀行を退職します。
退職した時には、明日の仕事や1週間後の仕事も全部あるスケジュールがある中で、全部を放り出して、安芸高田市長選への立候補を決めました。
ただ、退職する事は「今の役職は願って願って得たもの」だったので、かなり苦渋で後ろ髪を引かれる決断となりました。
石丸伸二さんが会社を辞める連絡をした時に、三菱東京UFJ銀行の上司や先輩たちは
と言ってくれたそうです。
さらに、都知事選の立候補についても、三菱東京UFJ銀行の同僚や上司の人達は
と言ってくれたそうです。
安芸高田市長に挑戦した理由は?
2020年7月に東京の自宅で、テレビで地元の安芸高田市のニュースが流れ、児玉浩さんが河井事件と言う汚職事件の責任を取り辞職をし、次の安芸高田市長選に当時副市長だった竹本峰昭さんのみしか立候補しておらず、無投票になりそうと言う事を見て
と思い、それを止める為に安芸高田市長選に立候補されました。
さらに、ニューヨークに行った事も大きいそうで、自身が幼少期から田舎で生まれ育ち、「もっと稼ぎたい。活躍したい。」などを思ってて、ニューヨーク駐在としてカナダからチリまでを担当し活動を行う事で
と考え出してたそうです。
ちなみに、石丸伸二さんは銀行員として経済を分析すると、経済を動かす根っこの部分に政治があるので、政治の大事さが分かり、20代の頃から政治家になる事は頭にあり、ゆくゆく市長をやりたいと言う気持ちはあったそうで、銀行員は大体50歳ぐらいでリタイアするそうなので、そこぐらいで「セカンドキャリアで政治家を目指すのもありかな?」と思ってたそうで、思いがけないタイミングで上記の事が起こり、「ここしかない」と思い選挙に出馬をされています。
三菱東京UFJ銀行での年収は?
三菱東京UFJ銀行時代の年収は、三菱東京UFJ銀行は日本の銀行なので、成果報酬型ではなく、他の銀行員と待遇ほぼ一緒だったそうです。
ニューヨーク駐在の頃はニューヨークでの生活費が上がるので、その分年収は上がっていました。
石丸伸二さんは実家が裕福ではなかったので、学生時代からお金の大事さを身に染みて感じてたので、学生時代から就職してからも「お金に困らないように頑張る。」と言う気持ちは持ち続けていました。
インディードの記事によりますと、三菱UFJ銀行のアナリストの平均年収は約974万円と紹介されています。
なので、石丸伸二さんの三菱東京UFJ銀行時代の年収は900万円以上あったかも?しれませんね。
日本の株式会社三菱UFJ銀行−アナリストの平均年収は、約 974万円 です。これは全国平均を 59 %上回ります。
三菱東京UFJ銀行時代の愛車は?
石丸伸二さんが三菱東京UFJ銀行員時代で東京に住んでた時には、愛車は持っておらず、移動は都バス・地下鉄・鉄道でした。
さらに、墨田町錦糸町に住んでて、勤務地のそばにある皇居近くの公園の桜を見ながら、東京国際フォーラム周辺を散歩していました。
安芸高田市長の頃の愛車は、マツダのロードスターとなります。
引用:X
ちなみに、石丸伸二さんが安芸高田市長時代は、1990年に建てられてたかなり質素なアパートに住んでたそうです。
以上が、石丸伸二さんの経歴に関する記事ですね。
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