大塚耕平さんの学歴は、旭丘高校・早稲田大学 政経学部を卒業しています。
お嫁さんは中学・高校時代の同級生でした。
小学校5年からバレーボールをしてて、中学・高校時代には素晴らしい成績を収めています。
1年間を浪人生活を河合塾で過ごし、大学に進学されています。
大学では、バレーボール同好会と外交研究会に所属し、東京外国語大学女子バレー部のコーチもしていました。
当記事では、大塚耕平さんの学歴や学生時代について書きました。
家族に関する情報やエピソードはこちらです。
広沢一郎さんの学歴や学生時代についてはこちらです。
大塚耕平の学歴は?旭丘高校・早稲田大学卒!
引用:読売新聞オンライン
大塚耕平さんの学歴ですが
- 1966年、名古屋市立第二幼稚園 卒園
- 1972年、名古屋市立田代小学校 卒業
- 1975年、名古屋市立城山中学校 卒業
- 1978年、愛知県立旭丘高校 卒業
- 1983年、早稲田大学 政経学部経済学科 卒業
- 1997年、早稲田大学大学院 社会科学研究科 政策科学専攻博士前期課程 修了
- 2000年、早稲田大学大学院 博士後期課程 修了・博士号取得(学術博士、専門はマクロ経済学、財政金融論、公共政策論)
大塚耕平の学生時代のエピソードまとめ
続いて、大塚耕平さんの学生時代を見て行きましょう。
幼稚園時代
行きは通勤途中なので父親の車で送られ、帰りは一人で市バスに乗っていました。
当時は東京オリンピックがやってたので、幼稚園の通知表(成績ではなく日頃の様子を家族に教えるもの)には将来の夢の部分は
と書かれていました。
小学校時代
ベビーブームの少し後だったので、1クラス45人・1学年8クラスと人が多かったそうです。
遊びに夢中で、草野球・缶蹴り・ハンドテニス・かかしなどをされていました。
日泰寺の境内や名古屋大学のグランドでよく野球をしてたそうで、毎日暗くなるまで遊んでいました。
小学校5年からバレーボールを始めます。
林間学校で稲武、修学旅行で奈良・京都に行きました。
中学時代
中学は自宅から30メートルとかなり近い距離にありました。
通ってた中学は人気が高く、田代・東山小学校の人達だけでなく、越境入学者も多く、1クラス45人・1学年14クラスのマンモス校でした。
中学1年の林間学校で中津川、3年の修学旅行では伊豆・箱根に行きました。
中学でもバレー部に所属します。
当時はミューヘン五輪で男子が金メダルを獲得し、男子バレーの人気が非常に高かったそうです。
その為、チームのユニフォームも全日本と一緒のデザインで揃えました。
さらに、バレー部も強豪で、1学年上の先輩達は全国大会に出場し、そのメンバーの中には全日本強化本部長の鳥羽賢二さんもいました。
ただ、大塚耕平さんの代では県大会止まりで終わってしまいました。
高校時代
高校は私服登校が出来るなど大学に近い自由な校風で、先生・生徒ともに我が道を行く人たちが多く、楽しい学生時代を過ごします。
高校でもバレー部に所属し、高校1年時には春高バレーで愛知県決勝まで進み、1年ながら控えセッターとしてベンチ入りをしました。
高校2年からはキャプテンを務めています。
現在でも高校時代の友人とは交流が続いています。
Xでも高校バレー部のOB会に出席してる様子が挙げられています。
大学時代
大塚耕平さんは1浪をされています。
浪人時代は、河合塾名古屋校に所属し、夏には春日井高森台の別邸で一人合宿を行っていました。
第一志望には合格できませんでしたが、早稲田大学 政経学部経済学科に入学をします。
経済学が楽しくて、かなり勉強をしました。
サークルは、バレーボール同好会と外交研究会に所属し、東京外国語大学女子バレー部のコーチもしていました。
その為、早稲田より東外大がある西ヶ原に通った日の方が多いそうです。
卒業論文はケインズの一般論とIS/LM分析です。
さらに、大学時代について
ドイツ語のクラスの仲間と楽しく過ごした1・2年。シュンペーター研究の大家、伊達邦春先生のゼミナールで過ごした3・4年。
引用:大塚耕平公式サイト
とも書かれています。
外交研究会の先輩が日銀に就職したのが縁で、大学卒業後は日銀に入ります。
大学院時代
日銀に在籍しながら、経済理論や金融政策・政治と経済の関係に関する自身の考え方を整理したいと言う動機で新設された早稲田大学大学院社会科学研究科 政策科学専攻に入ります。
そして、2000年に同大学院初の博士号を取得されました。
公共選択論の大家として知られた山之内光躬先生、地方財政の専門家で英語の達人である林正寿先生の指導の下、修士論文、博士論文を執筆。2000年に同大学院の初の博士号を取得し、無事に大学院生活を終えました。
引用:大塚耕平公式サイト
以上が、大塚耕平さんの学歴に関する記事ですね。
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